昭和五十七年一月十九日 朝の御理解


x御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の気感にかなわぬ。眼に見えて殺すのはお上があって、それぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」


 七十五節、その七十四節には「可愛いと思う心が神心じゃ」とあります。この七十五節に表れておるのは、ね、人を殺すのは同じ心で殺す、いうならば又傷つける、そういうものが人間の心の中には大体あるわけですね。いうならば、人を生かす心も、又は殺す心も、まあ鬼と仏が心の中には同居しとる、というふうに言われます。私共が信心をさしてもろうて、まあ、おかげを頂きたい、出来れば段々合楽で稽古さしてもらうと、兎に角人間の幸福は、あの世この世を通して御神徳を頂かなければならない。御神徳を頂く為には、こういう心の状態にも、又こういう信心もしなければならんという事を、まあ色々教えて頂くわけでありますが、豊かなおかげを頂きたい。いうならば豊かな物にも金にも、不自由しない様なおかげを頂く為には、やはり、やっぱり豊かな受け物がいる。豊かな心を頂かなければならない。いわば、神心を目指してもろうて、それも段々豊かに大きな限りなく、ならば美しゅうならせて頂こうと精進しておるなら、私はこの七十五節の様な事はないと思うんです。豊かなおかげを頂きたい、なら、こういう貧しい心、こういう険悪な心、これではおかげ頂かれん事がわかりますからね。そこんところを、こう改めて行くというか、いつだったでしょうか、合楽では、まあ、いうならば信心の根本的なところ、いわゆる根本理念というてもいいでしょうね、の所をまず、わからして下さろうとする、ね。ですから、そこんところがわかるというか、ふんまえての信心さして頂とればこういう事ないのですけれどもね、ただおかげだけに、こう元悪されておるとね、自分の都合の良い時には、まあ、ニコニコしておるけれども、都合の悪い時には、いうなら険悪な表情になったり、険悪な心が起こったり、自分の悪いのは棚に上げて、まあ人を責める、といった様な事にもなりかねない、ね。けれども、事、信心を身につけようという所になって来る時に、いうならばね、はあ、これによって、いよいよ豊かな心、これによって、いよいよ大きな心が出来て行くんだな、という事がわかりますから、そういう精進に心を向けての日々ね、
 寛大の寛という字は、ウ冠、そして草冠を書いてあるね。いうならば心が寛大になるという事は、いうならば広く、大きい、寛大のおかげが受けられるという事である。ウ冠というのは、まあ、宇宙という事でしょうね。草冠というのは自然という事でしょうね。それを見るとこう書いてある。起きて来る全ての事がね、いうなら天地の親神様のお計らいの中に起きて来る事、とりわけ自分と神様との間というもの、私の上に起きて来る、例えば問題であるならば、神様が私をより寛大にしようとされる働きだけしかないんだ、というふうにわかってまいりますと、それを自然の働きと見る。草冠に見るという事は、それを自然と見るという事。そこに、いうなら神様の知恵をもって教えて下さった御理解ですけれどもね、そういう事が私共はわからしてもらう。
 昨夜のお月次祭の後にも皆さんに聞いて頂いた様に、z御祈念中に頂いたこの「鷽(うそ)を削っておる」あの鷽会に使う鷽です、ね。木を削って作るですよね。だから如何に熱心に信心しておると言うても、自分の心の中に人の心を傷つけたり、突いたり刺したりする様な心の状態がある間はおかげにならんです。それはおかげを頂いて、どんなに一生懸命お参りをしてもです、それはね、鷽を削っておる様なもんです。本当でない事なのです、
 ね。だから私共の心から段々本当な事、より本当な事がわからせてもろうて、なら起きて来る全ての事が、いわゆる寛大の寛ですね、ウ冠に自然をと、天地の親神様の自然の働きと見るわけです。神様が私だけに下さる修行と見えるのです。そこに、なら心険悪にも、今まで信心がない時は、わからない時には怒ったでしょうけれども、そこがわからしてもろうたら、そこんところを有難く尊んで有難いとして頂いて、それを修行として頂いて行く事が出来る様になる。心がいつの間にか、豊かに寛大になっていけれる、ね。
 だから問題は、本当な事を一つわかるという事です、ね。合楽の場合はね、いうなら、それも神の知恵をもって本当な事を教えて頂く。ははあ、合楽の親先生はなかなか頭のええ人じゃあるなあ、ね。人間の知恵やら力では、考えもつかない様な事を言われる、ね。決して私が知恵が多いからじゃない。神様が教えて下さるから、神の知恵をもって皆さんに説いておるのであるから、そこを思うたら、なら皆さんもあれを神の声だと聞き、神様のお言葉とし頂いたら、ね、はあ、これが本当だという事がわかる、ね。わかったら、これを本気で行じて行くという所にね、これはね、そこんところがわかっておりませんと、やっぱこれは、私の性分だからと言うて、もうそれこそ、あの突く様に刺す様な心の状態がいつもイライラしておるという性分の人があります、ね。
 といって、又、心がのんびりして、まあおる人もありますけれども、それは性格でのんびりしておったり、まあチカチカする人であってもです、それは大した事ではないのです、ね。信心によって豊かになり、信心によってね、イライラもチカチカも無くなって来るという。それには本当な事がわかり、その本当な事が信じれて、それを行に表して行く時に、それはいよいよ寛大な心、豊かな心になる。その豊かな、その心に、でなからなければ、豊かな物にも、いうなら金にも恵まれて来るという事はないと思うです。ただ性格的におとなしい、性格に豊かな心の人、それではね、いうならば、あの、それだから豊かな物に恵まれるという事はありません。神様の御心を対して、御教えを頂いて、じぶんがいよいよ豊かになって行く、大きく成って行く。いわゆる寛大になって行く。
 そういう精進そのものが神様の心を動かすのですからね、ね。努めるという事が神様の心に通うにですから、まあ、ね、こういう本当な事を頂いた、この本当な事に、いうなら対しての日々の信心修行を怠りなくさしてもらう、そこから、ま、その七十四節にあります「可愛いと思う心が神心じゃ」という心も頂ける様になり、心の中にあった狭い心ね、いうなら自分の心の中に、ま、鬼と仏が一緒に同居しておる、その鬼が影をひそめて行き、いよいよ仏心が強うなって来るとね。いうならば神心が強うなる、って行くという所にね、だいたい焦点を置くと、この神が見ておると、ね、人の心を傷つけたり殺したりする様な事が、まずはなくなって行く。自分の心がおかげというか、あの、教えに、こうしっとりとしておる時、これは、あの上野先生が頂いた御理解だったと思いますけども「白露をこぼさぬ秋のうねりかな」という様な御教えね。露、お恵みの露に当たって、しかもそれを、あのうこぼそうとしないね。いわゆる、もう秋の実りは間違いない。ま、そういう様な御理解だったと思いますがね。教えに自分の心が、ああ、成程そうだ。自分は何でもないと思うておった事が、こんなにも大変なおかげにもさしつかえるものであったんだと気がついた時に、こころがしっとりとして来るのです、ね。それこそ、白露をこぼさぬ心が生まれて来るのです、ね。そこに、いうなら私は、祈りのおかげという事にもなって来るのですから、ね。心して、もういうならば、それこそ白露もこぼさぬほどしの心の状態をしっとりと、ね。教えに潤うていつもおれる様なおかげを頂きたいですね。どうぞ。